――コロンブスはアメリカを「発見した」人物として賞賛されています。しかし北欧に伝わる「ヴィンランド・サガ」を見ると、アメリカ人は「コロンブス・デー」ではなくむしろ「赤毛のエイリーク・デー」という祝日を作るべきなのではという気がしてきます。
祝日を作るなら、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンにまつわる「幸運なるレイフの日」の方がふさわしいかもしれません(笑)。985年頃にグリーンランドに最初に入植したのは、赤毛のエイリークでした。我々がこれを知ることができるのは、1つには「ヴィンランド・サガ」のおかげです。「ヴィンランド・サガ」とは、「赤毛のエイリークのサガ」と「グリーンランド人のサガ」という、アイスランドに伝わるふたつのサガを指します。
これらのサガはノース・グリーンランド人、つまり赤毛のエイリークの一世代後の人々が、どのようにグリーンランドを出航して北米の端にたどり着いたかを知る最も重要な文献です。彼らはまず今のカナダ北東部の北極海に浮かぶバフィン島に、続いてより南東のラブラドル半島に着き、ここを「マルクランド(森の土地)」と名付けました。そして最後に、カナダ東部のニューファンドランド島にまで南下するのです。(参考記事:「コロンブスに勝てなかった“新大陸発見者”とは?」 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/101500286/ )
しかし1960年代以前までは、この「ヴィンランド・サガ」が、こうした航海について我々が知る上での唯一の情報源でした。これが本当に起こったことなのかどうかさえ、誰も確信が持てなかったのです。そして60年代、ニューファンドランド島の北端に位置するランス・オ・メドーで行われた発掘調査により、ノース人がここに確かにやってきたという明確な証拠が発見されました。彼らが入植者であったとは断言はしません。
ここには細長い家屋がありましたが、住居というよりは越冬のための建物のようで、そこで船を直して、さらに南へ向かったのではないかと見られています。航海には女性も同行していました。あるサガには女性がそこで子供を産んだとあり、つまり彼女は北米大陸で出産をした最初の欧州人女性ということになります。
興味深いのは、考古学的証拠が発見されるよりも前から、米国人が北米のバイキングの遺跡に強い関心を寄せていたということです。19世紀末頃には、冒険小説に登場するような体の大きなノース人が、船で海を越えてやってくる姿を描いた絵画がたくさん制作されました。一方で、作り話や捏造品も数多く登場しました。
歴史的な事実が見つからないのなら、創作してしまえというわけです。バイキングが使っていたルーン文字が刻まれた偽の石碑がミネソタ州の遺跡から掘り出されたり、偽の武器が見つかったりしたこともありました。中でも偽古地図の「ヴィンランド・マップ」は有名です。(参考記事:「バイキングの遺跡、カナダ東部の島で発見」 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/040500122/ )
明日に続く・・・・・・
⨁⨂参考資料: ランス・オ・メドー ⨂⨁
ランス・オ・メドー(L'Anse aux Meadows)は、カナダ東部、ニューファンドランド・ラブラドール州のニューファンドランド島最北端にある考古遺跡。1978年にユネスコの世界遺産に登録された。カナダ国定史跡にも指定されている。ランソメドウズとも。
1960年、ノルウェー人の探検家ヘルゲ・イングスタッドとその妻で考古学者者のアン・スタイン・イングスタッドが発見した。コロンブスが北米に上陸する以前の年代にバイキングが持ち込んだとされる鉄釘をイングスタッド夫妻が発見し、これによりコロンブスの「新大陸発見(西洋人視点)」説は覆った。
地名はフランス語と英語の混成で「草原の入江」を意味する。いつからそのように呼ばれるようになったかは定かではないが、元はフランス語で「クラゲの入り江」を意味する「L'Anse-aux-Méduses」と呼ばれ、「Méduses」に音の近い「meadows(牧草地の意)」に転訛していったものと考えられている。
グリーンランド以外の北アメリカで、唯一ヴァイキングの入植地として確認されている遺跡である。長年にわたり考古学調査が行われており、コロンブスの北アメリカ到達から遡ること500年以上前の住居や道具などが出土した。居住地には北アメリカで最初にヨーロッパ人が作った構築物が含まれている。一般には、西暦1000年頃のヴァイキングの航海者レイフ・エイリクソンが到達したヴィンランドだと考えられている。
ランス・オ・メドーの入植地は少なくとも8つの建物からなっている。鍛冶と溶鉱炉、船作りを支えた製材所なども見つかっている。最大の建造物は、縦28.8m、横15.6mの床面積があり、複数の部屋からなっていたと思われる。
10世紀から11世紀のグリーンランドやニューファンドランドの気候は21世紀現在よりも温暖だったとみられる。レイフ・エリクソンの航海について詳しく書かれたサガ(『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ(赤毛のエイリークルのサガ)』)によれば、986年にビャルニ・ヘルヨルフソン(Bjarni Herjólfsson)がアイスランドからグリーンランドに渡る途中、地図もコンパスもない航海で嵐に襲われ、グリーンランドを探して西へ向かっていたところ偶然森に覆われた陸地を見たという。
10年後、この話を聴いたレイフはビャルニの船を使い、35人の仲間とともにその土地へ向け出航し、ブドウと鮭が豊富で冬でも霜の降りない土地に着き、木の少ないグリーンランドに多くの材木を積んで帰ってきたという。ランス・オ・メドーは、
最初の宿営地 / 先住民たち(スクレリングと彼らは呼んだ)に追われた後に作った宿営地 / サガには出てこない宿営地
のいずれかだと推測されている。
サガはさらに、1010年ごろのソルフィン・ソルザルソン(Thorfinn Karlsefni, トルフィン・カールセフニ・トールズソン)による入植の試みにも触れている。トルフィンに率いられた135人の男と15人の女はヴィンランドへ渡り、レイフの使った宿営地(おそらくランス・オ・メドー)に住み、ここを入植地とした。この入植者の中に、赤毛のエイリークの私生児でレイフ・エリクソンの異母姉妹にあたるフレイディス・エイリークスドティール(Freydís Eiríksdóttir)がいたという。
彼らはスクレリング(おそらく、アメリカン・インディアンのベオスック族たちと交易したがやがて対立し、グリーンランドへ撤退した。サガに出て来る入植地とランス・オ・メドーの関連については確認されていないが、ランス・オ・メドーの地が西暦1000年ごろのノース人の入植地であったことは確かである。
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